仕事の意義

企画会議にて。プレゼンに対する質問の矢を浴びながら青年が言う。
「この企画の世の中的な意義はと聞かれても、ちょっとわかりません。そもそも社会的意義があるものを作るという趣旨ではなくて、純粋にもっと・・・を楽しむ本を作りたいんです」

そうか。それなら出したくない。おれは反対だ。ボツにしよう。

優等生的な企画を出せという意味ではない。いかにも善良なメッセージがこもった本ばかり企画しろという意味ではない。ただ楽しむための本でも、ただ感動して泣くためだけの本でもいい。問題意識だけかき立てて解決策を示さない本とか、残酷な話の本とか、とにかく実用性だけを追求した本とか、将棋の本の企画でも、アヴリルラヴィーンの本の企画でも、いろいろあっていい。人生いろいろ、民主党もいろいろ、本もいろいろだ。

ただ、どんな本であっても、その社会的意義を語ることができるかどうか。それが大事だ。「社会的」というのは、つまり複数の人々、多種多様な人々にも理解可能な、ということだ。つまり他人にも分かるように、その本をつくる意義を説明しろということだ。見ず知らずの人を射程に入れて語ってみろということだ。

楽しむためだけの本を出して、それが世の中にどんな影響を与えるのか、それによって読者は何を得るのか、どうなるのか、そこに何の意味があるのか・・・。それを語れないと、その企画への興味は自分一人のものにとどまってしまい、広がりを持たない。それでは良い形で本は作れない。少なくともうちでは、そういう作り方は認めたくない。実際、私自身も経験があるが、独り善がりで作られた本は、販売上も品質上も、どれもあまり良い結果になっていないではないか。

要するに、連携して本を作り販売していくメンバーとの間に温度差が生じてしまうのだ。編集者と他の編集者の間に、編集者と営業担当者の間に、出版社と書店員の間に、温度差が生じる。そして、ひいては読者との間に温度差が生じる。だってそうだろう。身近な人たちに対してさえ「意義」を伝える努力を怠って立てた企画が、遠くの人に届くわけがない。当たり前の話だ。

そういうこと。自分自身の興味や思いは突き詰めつつ、それを多くの人に対して伝え、理解してもらえる力をつけないといけない。趣味や志向が異なる人には、同じレベルで共感されることはないかもしれない。でも理解されることは不可能ではない。もちろん逆も同じ。少なくともその努力を怠ってはならない。言葉を扱う仕事をしてるんだから。

・・・なんていう意味のことをお話ししてみた金曜の夜。偉そうですなあ。やれやれ。。自分のことを棚に上げないように備忘録として記す次第。