小林秀雄・岡潔『人間の建設』

新潮文庫から非常に良い新刊が出ました。稀代の批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談、『人間の建設』。昭和40年に行われた対談が文庫で蘇りました。

人間の建設 (新潮文庫)

「有り体にいえば雑談である」と紹介文にあるように、形式ばらずに思いのままに語り合われた雑多な話題。芸術から日本酒まで、本居宣長からアインシュタイン、近代数学ドストエフスキーまで、二人の幅広い抽斗には恐れ入ります。文系・理系の対談ですが、そんな枠など関係なく話が展開していく。むずかしい点も多々ありますが(とくに数学絡みの話とか)、とはいえ「考えさせる」言葉の数々に否応なく引き込まれます。

小林秀雄は、昨今の(つまり対談当時の)絵画も良いものが少なくなったと発言しています。小説も同様だと。


個性をきそって見せるのですね。絵と同じように、物がなくなっていますね。
岡潔はこう応えています。

物を生かすということを忘れて、自分がつくり出そうというほうだけをやりだしたのですね。
自己表現、本物の自己、確固たる自我の表明に拘泥するばかりで、物の本質を見る目を曇らせてしまってはいないか。――芸術を論じていながら、彼らの言葉は人間の生活すべてにわたる普遍性を持って響き合います。自分の心の「ほしいままなもの」、小我への執着を捨て、自然を客体として眺めるのをやめ自己を自然の中に置くとき、物事の本質、本然の姿は見えてくるのだと。芥川龍之介もたしか文芸鑑賞についての小論でそんなことを書いていました。U理論ふうにいえば、物事を「内側から見る」こと。

その人の身になってみるというのが、実は批評の極意です・・・(中略)・・・高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。(小林)
物事をよく「見る」ということを、現代人は忘れがちなのではないか、と彼らは問いかけてきます。よく見ることをせず、さかんに喋ったり動いたりする。ものをじっくり考えようとせず、あふれる情報に飛びつき、翻弄される。それがどれだけ危険なことか。

いま人類は目を閉じて、からだはむやみに動きまわっているという有様です。いつ谷底へ落ちるかわからない。(岡)
一見、現代の私たちの目には時代錯誤にも映る言葉も彼らは口にしています。「素読教育の必要」と題する箇所で小林は、「論語」を素読させていた大昔の教育を引き合いにして言います。

暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。
これを懐古趣味とか逆説と言って片付けるには、彼らの言葉は深すぎます。丸暗記的な“無駄”をそぎ落とし、純化した意味のみを伝える合理的なコンテンツが世の中にあふれている昨今ですが、一方で私たちは、そこに無味乾燥やニュアンスの不足を感じたり、そんな簡単に割り切れるものではないと怒ったり、小手先のテクニックでなく思いを伝えろと言ったり、より多くの意味を求めたりせずにはいられない。

理性と感性、右脳と左脳のバランス、といったことがしばしば語られますが、彼らの対話がその際立った実例だと思います。わずか140ページの「雑談」、しかしそこに示された洞察は、とてもとても深い。