寄合と民主主義

先日、三重県紀北町を社外勉強会のメンバーと訪れ、地元のNPOの方々と共に「地域の未来を考える」対話集会を行った。地元住民40名ほどが参加してなかなかの盛況だった。もっとも私は大したことはしていない。地元の人が宣伝して人を集め、勉強会のD君がプレゼンテーションをして、勉強会のメンバーが作った資料を参考にしつつ、ファシリテーションのプロのIさんの司会の下、参加者がグループに分かれて対話をした、私はその傍らで聞き役をしていただけだ。

参加者の地域に対する思いの強さや発言の積極性が予想以上で楽しい一時だった。総勢40名。隣の町から来た人もいれば自治体や金融機関の職員もいた。お祭りの実行委員の青年団や元気なお婆さんたちもいた。各々自分の言葉で問題意識を語った。

たかだか二時間半の集会で何か具体的なことが決まるわけではない。話は拡散したし、噛み合わないこともありそうだったが、皆が前向きに協力し合って地域振興に取り組む思いは、なんとなく醸成されたように思う。今後の何かにつながる良いきっかけとなればと願う。

対話集会はワールドカフェの形式をとった。小グループに分かれて対話を行い、メンバーを入れ替えてまた対話する、という手順で自ずと全員が発言の機会を得、それが全体に共有される会議法だ。議論ではなく対話。反論して意見を潰して集約するのではなく各々の意見を聞き合う。発言を引き出す上で良い形だった。

思えば、わが故郷でも存在する「寄り合い」に近い。寄合は村の面々が車座に集って一日かけて延々と意見を言い合う、たぶん都会人には悠長で耐えがたい集会だ。私の地元では、雷で壊れた神社の修復をどうするとか、区画整理の計画に対して村としてどう応じるかとか、そんなことを話し合っていた。父親が出席し、昼前に出て行ったのに夜まで帰らないことも多く、実に気長にやっていた。

それは何も戦後民主主義の時代になって生まれたものでもなければ、大正デモクラシーで生まれたものでもないらしい。昔から日本の津々浦々の集落では、そんな地域共同体の集会、「寄合民主主義」のようなものが存在したようだ。

宮本常一という民俗学者の『忘れられた日本人』という名著がある。食事をまたいで、時に日をまたいで長々と続く寄合の様子が描かれていて興味深い。話が本題から逸れることも多いという。途中で食事に帰ったりもするという。延々と続く中で皆が発言して、出尽くした頃合を見て、ではまあ、こういうことでどうやろうか、と結論めいたことを言うのが長老の役目だったとか。決まったことへの文句は出ない。発言を繰り返すなかで自然と共通認識ができあがるのだ。

日本は西洋から民主主義を輸入した、と言われるものの、その土壌は実はもともと寄合という形で存在したのだ、と見ることもできる。とはいえ、それは今日のいわゆる民主主義とは、似てはいてもやはり別物だ。最終的には多数決。時々は議論を尽くさずに採決に持ち込まれることもある。数でものを決める点において両者は異なる。

民主主義も個々の意見表明を求めるが、それが決着を見ないとき、やむをえず数の論理で結論を出す。言い換えれば、話し合いでまとまらないものを、仕方なく数でまとめるのだ。「民主主義とは話し合いで物事を解決することだ」という小学校時代の教えは必ずしも正確ではない。もうちょっとドライな、あるいは冷たいものかもしれない。

こうした寄合と民主主義の違いは何に起因し、何をもたらすのか。それは寄合に集う人々が基本的には「地域に縛られた」存在であることと関係がありそうだ。彼らは定住しており、今後も共に共同体を担っていかざるをえない、意見の不一致があっても協働していかざるをえない間柄だ。そこでの決め事を安易に多数決に頼っていては、しこりが残るだろう。そういう深謀遠慮があるのではないか。延々と続く寄合は、そこで暮らす人々の共に過ごす時間の長さを思えば、過剰に長いものではなかったのかもしれない。

いや待て、民主主義もそれは同じだ、共に社会を構成する人々から成るものだ、グローバル化とはいえ人々が容易に国籍を変えるものではないではないか、と言えば、確かにそう。だが、全有権者で寄合をすることは物理的に不可能だ。ということで現在の政治体制があるのだろうが、要するにこれは、それ自体が「やむをえず」の性格を持つ次善の策だと思われる。上から押し付けた民主化が必ずしもうまく機能しない例は世界各地にあるはずだが、それは寄合が無い所や壊れた所に押し付けるから、不満が鬱積するのだろう。

だからこそ寄合は、今日もその存在意義を保っている。対話集会でもワールドカフェでも名前は何でも良いが、そういう小集団の会合が幾つも存在することが、民主主義社会を健全なものにする。あるいは先程のことは逆にも言えて、寄合の時間が短くなればなるほど、人々が共同体をともに構成する時間も短くなるものかもしれないから。これ、職場にも言えるはず。といって寄合的なものになかなか多くの時間は割けない職場環境、ワールドカフェなど「場づくり」の方法論が注目されるのは成程という気がする。