日本語が亡びるとき

水村美苗氏の『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(筑摩書房)。水村氏が言葉について、日本語について書かれたものを読まないわけにはいかない。この人は幼い頃にアメリカに長く住みながらも日本文学に通じ、漱石みたいな見事な日本語によって、時に英文混じりの横書きの文体も駆使して、二つの文明、文化圏、とりもなおさず言語、の狭間で生きてきた者の思いをつづった人物。現存する日本人作家の中でたぶん最も美しい文章の書き手の一人だろう。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

本書は書名が示すとおり、日本語の危機を論じた本だ。単に言葉の乱れを嘆く、というレベルの話ではない。大昔の漢字の伝来に始まり度々の革新を経て作り上げられた日本語が、いま英語が世界の「普遍語」となる世紀において足元から崩れようとしている。インターネットがもたらす圧倒的な情報量と現下の貧弱な国語教育のもとで日本語の「読まれるべき言葉」が読み継がれなくなり、日本語で書くという行為の重要性が相対的に低下し、双方相俟って日本語が単に日常の用を足すだけの言語となり、思考するための言語ではなくなる可能性を、非常な危機意識を持って語った本である。

漢文から仮名が生まれ相混じり合って現在古文と呼ばれる日本語が成り立ち、これがドラマチックな変革を遂げたのが明治時代。今とほぼ変わらぬ形が出来上がったのがこの頃で、本書で記されるその成立過程の苦闘は凄まじい。大日本帝国の初代文部大臣はじめ一部の識者は日本語を排して英語を公用語にすべしとか、漢字の使用をやめ仮名はローマ字表記にすべしといった議論を大真面目にしていた。というのも当時、旧来の日本語には存在しない概念が無数に押し寄せてきたからで、とても日本語では太刀打ちできないように思われたからだ。

そんな中、福沢諭吉を筆頭とする文系エリートの凄まじい語学熱と翻訳熱が日本語を救った。大量の新たな情報と思想を次々に翻訳して日本語に取り込み、かつ日本語で書き、読ませることで、彼らは日本語という言語そのものの可能性を押し広げ、日本語を母語とする国民が日本語によって時代の激変を受容し適応することを可能にした。言文一致運動は日本語を万人にとっての読み書きの道具にした。彼らは言語を革新することで言語の独立を保ち、言語の独立を保つことで一国の独立を保った。鴎外や漱石に代表される近代日本最高の知性の多くが文学を志したのは、それ自体が近代日本の国づくりの一端を確かに担っていたからだ。

そういう過程を経てきた日本語にいま何が起こっているのか。それはまず、戦前の漢字廃止論にも似た戦後の新仮名遣いと新字体の導入(これについては福田恒存の『私の國語教室』に詳しい)、さらには英語教育熱の一方で生じた国語教育の脆弱化によってもたらされる、読み書きの手段としての力の衰弱である。

今日もはや我々は旧仮名・旧字体の本を容易に読めなくなっている。昔の文体にも馴染みが薄い。100ページもない『西郷南洲遺訓』を読み通すのも容易ではない。『余は如何にして基督信徒となりし乎』などタイトルだけで読む気が失せる。こうして名作が読み継がれなくなる。インプットが減るからアウトプットも自ずと細っていく。いや、代わりにインプットされるものは大量にあり、その結果アウトプットにもそれが混じる。現にインプット、アウトプット、と混じってきた。そういうわけで日本語は廃れていく――よく言っても変質していく。

言葉が変化するのは世の常、外来語も取り入れるのが日本語のすごさだ、と言えなくもないが、話はそれで済まされない。日本の国語教育は諸外国と比べても極めて貧弱なものに成り下がっている。「ゆとり教育」という愚かな政策は廃されたとはいえ、今も教科書は諸外国に比べて信じがたいほど薄いという。中学校では英語や社会や理科が週4時間教えられるのに対して国語は3時間だとか。英語学習の重要性は明らかにしても、その裏で、自分たちの言葉である日本語など自然に身に付くだろう、という楽観が、日本人の日本語力を貧弱にしていく。外来語を咀嚼し日本語に取り入れる、という以前に言語を用いる力そのものが摩耗する。

そればかりではない。グローバル時代、学者も政治家もビジネスマンも、世界の普遍語たる英語で発信する力が重要となっている。それは必然的に、内容の濃い言葉を日本語以前に英語で表現する傾向を生むだろう(現に諸学会ではそうなっている)。だが、そうした中身のある言葉が日本語で書かれなくなることは、中身を求める人ほど日本語を読まなくなることをもたらし、双方相乗的に進んで日本語は内容空疎な言語となる。日本語は読み書きの手段として、思考する言語としての力を失っていく。近代文学の担い手たちが押し広げた日本語の膂力は萎えていく。言語の空洞化。それはいわば社会の知的基盤の瓦解である。日本語の衰退により日本もまた衰退する。

こうした懸念に加えて水村氏は、インターネット時代の言語教育の在り方にも警鐘を鳴らす。インターネットで世界中のテキストが共有される時代となっても、すべての知識が蓄積された巨大な図書館ができても、言葉は読まれなければ意味を持たない。テキストはあっても、それを満足に読めないということ。それは、物事をテキストに遡らずテキストブックによってしか把握しえない事態を生む。福沢諭吉の書いたものは読めず、福沢の書いたものについて書かれたものしか読めなくなる。そこに誤謬があればどうなるか。読み継ぐという行為が失われれば、人は過去を書き換え捏造し、現在の視界で見えるもの以外の存在を抹消してしまう。それが可能な状況が現出する。中国の文化大革命カンボジアクメール・ルージュ。だから水村氏は英語教育についても「読む力」の重要性を強調する。

いくら強調してもしたりないことだが、インターネットの時代、もっとも必要になるのは、(文科省が小学生の新学習指導要領でいう)「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは、世界中で流通する〈普遍語〉を読む能力である。しつこく強調するが、この先五十年、百年、最も必要になるのは、〈普遍語〉を読む能力である。

これらの著者の主張に対して、現在の学校教育はまさに正反対の道を進んでいるかに思える。この先、片言でも英語が通じる喜びが増進される一方で、インターネットに蓄積された世界中の知識を活用する能力は十分に育たず、自らの母語でさえまともな読み書きができないとなれば、日本は知の後進国に、日本人は知の貧困者に成り下がるだろう。そして人類の歴史と世界の多様性を形づくる一片が失われ、世界は同じ色になっていくだろう。そんな著者の深い懸念がどこまでも重く迫ってくる。言葉に関わる仕事をする身として、とにかく重い一冊だった。