大学生の就職相談

福岡から後輩の大学生が来たので近所の居酒屋で飲んだ。大学三年生の彼、出版社の仕事に興味があるので話を聞かせてほしいと言ってきたのだ。

出版社といっても私がいるのはたぶん特殊な部類で、有名な版元がどういう職場なのか、どんな仕方で仕事しているのか、どんな人たちがいるのか、私はあまり知らない。業界内の知人も多くない。だからあまり参考にはなるまいと思い、その点強調して話した。とはいえ、こういう進路相談を受けていつも思うのは、しょせんどんなに頑張っても学生が就職前に得られる情報や理解はきわめて限られたものにしかなりえない、ということで、これは働きだしてからも同じである。先行き不透明なのだ。

だから就職においても結局は、限られた理解と情報の中で、ある意味、どうなってもいいや、という姿勢、投げやりというのではなく未来の不確実性に対してオープンに向かう姿勢が、どうしたって求められるし、就職時に持たなくても就職してからきっと求められる。どの会社でどんな仕事をするかに正解も間違いもありはしない。唯一絶対の正解のない問いの中に誰もが船出せざるをえないのだし、仮にそこに正解があるとすればそれを正解とするのは個々人自らでしかない。

世の受験産業ならぬ就職産業においては、しばしば、自分の適性適職をしっかり「見極め」、志望企業に狙いを定めて選考突破の技を身につけるべしというメッセージが発され、学生たちが受験戦争ならぬ就活戦争に駆り立てられている。いや、それらの業界の人々は実際まじめに就職支援や採用支援に取り組んでいるのかもしれない。たぶんそうだろう。だが、なぜだろうか私がしばしば出会うのは、二つの点の間に一本の直線しかないと捉えるようになってしまう学生たちの、不安と気負いに満ちた表情だ。

そうして当然ながら彼らのある者は勝利感に酔い、ある者は敗北感に塗れる。もともとが直線であるだけに折れやすいようにも思う。そしてこのとき勝利感に酔った者もしばしば就職後に「思い描いていた仕事と違う」と感じて折れてしまう。企業側の説明にも一因はあるかもしれないし、就活産業が発するメッセージにひそむ焦燥感なども影響しているとも思われる。だが一方で、先々のことを確実に予見することなどそも不可能なのだという当然の事実が、あるいはこの世の中一般において、あまりにも軽視されているのかもしれない。ニュースでもよく「先行き不透明な時代」と言う。だが先行きが透明だった時代があったのか。

思えば就職活動時に定跡のように行われる「自己分析」。就職活動の相談などに乗っていると、学生たちの語る、妙にやせ細った「自己像」に直面することは少なくない。もともと「自己」など考えれば考えるほど複雑でわからなくなるものだろう。まともに語れないのが本当ではないか。それを承知で語るわけだが、それを承知、の自覚があるとないでは語り方から違ってきそうだ。だいたい、怪しい性格診断テストなどを使って誰かの言葉で自己を語るのだから、おかしくなるのは当然だが。そうして、よく似た「自己」が幾つも面接会場に並ぶのである。

それに自分が語るにしても、その自己像というものは結局は自分が思い描いたものにすぎない。自分が思い描いた将来像、それに至る直線的な道筋、そしてわかりやすく定義された自分自身の自己像は、いずれも同じくらいに不確かなものなのだ。確かなことはその不確かさの中にしかないのだが、人は自分の描いたものに確かさを期待し、当然のように裏切られる。良くも悪くも。

昨今の就職難を意識して、彼は三年生の今のうちから対策に取り組むべきかと考えたようだが、それは小学生が遊びもせず意味も理由もわからず中学受験に励むようなものではないですか、と忠告した。あふれる情報と掻き立てられる幻像に振り回され流されずに済むように、自分の人生を生きられるように、むしろ今のうちから正解のない問いについて考えることに時間を使ってはどうですか。そのための場や材料は大学にも幾らでもあるでしょう。

この就職氷河期にそれでは不安だと言うのなら、心配は要らない。流されず振り回されずに日々自分の思考をしてきた学生を捨てておくほど世の大人は盲目ではないし、仮に盲目だとしたらそんな人たちと共に働く理由もないではないか。・・・そんなことを言う私が応える就職相談は、目下就職活動中の学生たちにはほとんど役に立たないようだが。