ソラニン

単行本が出たのは3年前だから、今さら、なのだろうけど。最近知った浅野いにお氏のマンガ、『ソラニン』(1,2)を読んだ。とても良い作品だったので紹介。

ソラニン 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

社会人2年目、やりたいことが見えなくてなんとなく就職した会社を辞めた主人公と彼氏とその仲間たち、そして学生時代から続けているロックバンド、と、いかにもモラトリアム気味な若者の日常、という見飽きた設定ではあるのだが。読ませる。各人の独白や心情の描写がとてもリアル(というのはもちろん大袈裟という意味ではない)で、丁寧。

やりたいことが見えないとか、夢を捨てられないとか、社会に取り込まれて埋没してしまうのが嫌だとか、・・・そういう思いでぐだぐだしているこの主人公たちを「甘い!」というのは簡単だし、私もそういう後輩がいたらそう言いがちだし、結局彼ら自身もやがて生きてくため仕事に就いていく。それを一種の「卒業」として見るのが大概の見方かもしれない。無謀な夢や、社会の毒に対する脅えを卒業して、大人になる。そうして人はその頃の、卒業前の未熟な自分を笑い飛ばすようになる。

でも、その頃の自分が抱いていた問いは、実のところそう簡単になくならないし、笑い飛ばして大人になった気でいても案外、その問いから逃げようとしているだけかもしれない。きっとそうだと私は思う。だから、不況で先行き不透明になれば中高年でも道に迷うのだろうし、そうでなくても、人は脆いものだ。彼らはほんとうにあのとき「卒業」したのだろうか? そうして大人になっていたのだろうか?――モラトリアムを先延ばししようとするのが「甘い」なら、粉飾や偽装はもちろん、日常の些細な毒に見て見ぬふりするのも「甘い」、会社にしがみつき、自己の保身に汲々とするのも「甘い」、逃げを妻子のせいにするのも「甘い」。大人と称するものの中身は、実はモラトリアムの若造と変わりなかったり、あるいはもっと甘かったりする。

そもそも、そのころ抱いていた問いは、卒業する類のものではない。それはずっとつきまとってくるのだ。むしろ、そこから卒業できないことを悟ってその問いとともに生き続けようとすることこそ、唯一可能な、まともな生き方ではないか。このマンガの主人公たちは、ある理由から、その問いから逃げられなくなるのだけど、ここまで鮮烈ではないにしても、こういう年頃の、よく似た記憶は、たぶん多くの人がもっているのではないかと思う。そして、そういう記憶をもって、問いとともに生きていく彼らは、たぶん、このあともまともな生き方をするだろう。そんなことを思った。傑作。

なお「ソラニン」とは、ジャガイモの芽の部分にある毒のこと。ちなみに主人公の名前は芽衣子(めいこ)で、彼氏は種田。うまいタイトルだと思う。あと関係ないけど、舞台となる地域には川が流れている。川のある街というのは抒情的で良い。故郷でも福岡でも近くに川があった。東京に来てもう6年経ったが、何か欠けてると思っていたのはこれだったか、とふと思った。