乃木希典

昼、新刊の売れ行きを見るため有隣堂に偵察に行った際、文庫の棚も見て回っていたら目にとまった一冊。福田和也氏による『乃木希典』。

乃木希典 (文春文庫 ふ 12-6)

わりと薄い本なので、帰りの電車のなかで読み始めて帰宅して食事もせずに一気に読み終えてしまった。

乃木希典はいうまでもなく明治日本の将軍、日露戦争時の旅順攻略戦を指揮して多数の死者を出した司令官、その徳の厚さから軍神とあがめられ神社まで建っている人であり、明治天皇の死後、殉死を遂げた人物でもある。そして歴史小説の大家・司馬遼太郎によって、無能な「愚将」としてこき下ろされた人物でもある。

乃木将軍については、福田恒存が『乃木将軍と旅順攻防戦』だったか、そんな題名の論文を書いていて、戦後日本において悪評を浴びせられてきた乃木将軍を擁護していた。この福田和也氏の乃木論もまた、司馬遼太郎の見方とは異なり、「有徳」の人物としての乃木像を、コンパクトに明快に描いている。

武士の家庭に生まれながら病弱で気弱で、周囲に溶け込めず、軍人になってからは失態と恥辱を繰り返し経験した乃木希典。その彼が異常なまでにこだわり貫いた、質実・誠実で慈愛に満ちた生き方には、彼が神として祭られたのもうなずけるだけの神々しさがある。

福田和也氏は、そうした乃木のような人物が今日の日本にいないこと――有能な人物は大勢いるが――を嘆いており、そうした哀惜の念がこの乃木本の基調をなしている。こう書かれてあったのが印象深い。良い本だと思った。

 今日、私たちは、児玉(源太郎・・・軍人として乃木より「有能」だった)を称揚することはあっても、乃木を敬慕することはない。
 それは、私たちが機能主義の時代に生きているからにほかなるまい。機能で、能力で、人を評価することに馴れている。馴れすぎていて、疑うこともできなくなっている。
 有能であること、賢明であることだけが、人を尊敬する理由になってしまったのは、私たちが合理的になったというだけではないだろう。むしろ、それは、いかに視野が狭くなったかを示しているようにも思われる。