現場からの教育改革

先日、民主党シンクタンク主催の「現場からの教育改革」フォーラムに参加してきました。フィンランド教育研究者の北川達夫氏(『図解フィンランド・メソッド入門』著者)、劇作家・演出家の平田オリザ氏がゲスト。

フィンランドの教育が優れていることは以前からいくつかの本で知り(福田誠治『競争やめたら学力世界一』、高橋絵里香『青い光が見えたから』等)、関心を持っていたのですが、日本ではまだあまり伝えられていないフィンランド教育の重要な点として「演劇教育」があることを今回知りました。

フィンランドでは、演劇教育が極めて重視されているのだそうです。同国の教育が注目されはじめてから日本の教育関係者も多数フィンランドを視察しているものの、国語教育に目を向けるばかりでこの重要な点を見過ごしているらしい。演劇教育、つまり「演じる」ことで「表現する」ことを学ばせる教育。なぜ、それが重要なのか。簡単に言うとこういうこと。

――昨今の日本の子供や若者はしばしば「本当の自分」に悩む。が、人間はもともと、社会のなかで実にさまざまな「役柄」を演じて生きていくものだ。友人としての自分、男としての自分、父親としての自分、部下としての自分、上司としての自分、顧客としての自分、サービス提供者としての自分、有権者としての自分、などなど。そうした社会生活を営む上では「演じる」ことは決定的に重要だ。

日本では、「演じる」というと何か「嘘」のようなネガティブな印象で受けとめられがちですが、人間が社会的な振る舞いを身につけていく上でこれは不可欠だということです。思えば子供のころ、「○○ごっこ」という遊びをよくしたものです。演じることを通じて人は表現を学んで行く。他者との役割の違い、立ち位置の違い、一人一人の個性や多様性なども、そういう所から徐々に学んでいくのではないか。これは、なるほどと頷ける指摘のように思います。

だから、フィンランドでは演劇が重視されている。いわゆる劇だけでなく、授業の端々で、ロールプレイングが取り入れられる。日本でウィル・シードが行っているトレーディング・ゲームなどにも、この要素があるのではと思います。ただ、北川氏によると、最近の日本の子供は「おままごと」をあまりしなくなったらしい。学校で演劇的なものに取り組む機会も減っているかもしれません。

それは長期的に、人の表現力や、他者に対する寛容さや、相互理解を育む力、などなどに影響してくるように思います。劇作家でもあった福田恒存(ちなみにハンナ・アレントと並んで私が最も尊敬する思想家です)は、『人間・この劇的なるもの』で、こんなことを言っています。

自然のままに生きるという。だが、これほど誤解された言葉もない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに耐えられもしないのである。程度の差こそあれ、誰でもが、何かの役割を演じたがっている。また演じてもいる。ただそれを意識していないだけだ。・・・個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。

演劇には、何か本質的に、人間の生そのものを象徴するものがあるように思います。役者は脚本に沿って演じながら、その行動は完璧な必然ではありえない。全体は常にその場その時に立ち現れ、役者も観客もそれを構成する存在であり、神の視座から全体を睥睨することはできない。部分でありながら、同時に全体に参与している。

また、福田恒存はこうも言っています。

人はよく自由について語る。そこでも人々は間違っている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、その中に登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。・・・生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台の上で、常にそうであるように。

私の理解を付け加えると、この必然性に「参与している」というのが重要な点であり、福田は人間が奴隷になりたがっているという意味で言ったのではありません。役者は演じさせられるのではなく演じるときにこそ優れた演技を見せる。この、「演じさせられる」から「演じる」への転換は、学校で演劇の練習をするときなどに子供がしばしば見せる重要な、成長の瞬間ではないかと思います。

日本の教育では昨今、「生きる力」というものを育むのが一つのテーマになっていますが、有効な施策は打てていない模様。また、「学力」の現在の国際標準は「課題を見つけ、解決する力」となっており、これは経済社会の成熟を背景としているため不可避の流れだと思いますが、日本の教育現場はいまだこれに対応していないようです。

他方、昨今の「論理的思考力」や「意見を言う力」の教育が、おそらくはかなり画一的な指導方法によってなされたために、型通りの一方的な意見表明はできるが他者と「話し合う」ことがほとんどできない(集団で課題を解決することができない)という状態を生んでいる、という指摘も非常に気になります。

フォーラムでゲスト2人が「価値観の共有を前提としないコミュニケーションの力を養う必要がある」と述べておられたのも印象的でした。今後ますます国際化が進む中、以心伝心・付和雷同ではやっていけないし、異なる立場・異なる言語・異なる価値観など、異質なバックグラウンドを持つ人とのコミュニケーションはかつてなく重要性を増す。その涵養に失敗すれば、世の中は至る所で軋みや歪みを抱えることになるでしょう。

「既に日本の高齢層と若年層の間には、相当な価値観のズレがあるではないか」という指摘もありました。そういう意味において日本社会がバラバラになるのは仕方が無い、避けられない流れです。が、だからといって喧嘩や紛争をしていては皆が不幸になるだけです。価値観がバラバラな中でもコミュニケーションをとり協調していく力を、子供たちだけでなく私たち皆が持たなければならない。

教育問題は、長期的な問題として語られがちです。実際、その効果が明らかになるのは相応の時間を要するでしょう。が、そうでもなく、喫緊の課題でもあるように思います。今回、フィンランド教育と演劇教育に大きな可能性を感じましたが、課題は山積。一市民としても真摯に考えていかなければ。

※ちなみに、福田恒存の『人間・この劇的なるもの』は先月、新潮文庫から復刻されました! 戦後最大の思想家の代表作。興味のある人はぜひお読み下さい。
人間・この劇的なるもの 改版 (新潮文庫 ふ 37-2)