池田晶子著『事象そのものへ!』

思考の本性は、一切の前提を決して無条件に受け入れることなく、可能な限りまで前提を遡ることにこそ、ある。
事象そのものへ![新装復刊]

現実とはこんなものだ、と思うとき、その思われている現実とはいったい何なのか。一見盤石に思える客観的で明白な「現実」も、他の人の目には違った光景として映っていることがある。それを知ったとき人は、現実が決して自己の意識とは無関係に存在しているのではないこと、言いかえれば自分が現実と思っている現実は自己の意識の中にしかないことに気づく。

にもかかわらず現実として、人と人は概ね同じ現実を見ることもでき、さらには普遍的な法則、まで見出すこともでき、その共通の基盤の上に何事かを共に築いていくこともできる。そして同じ現実を見られなくなったとき、その築かれたものは――何かの前提の上に作られた現実は、文字通り足下から崩れる。言い換えれば、現実は、それが意識の所産である以上、つねに可変的なものである。

さらにそれは、「自分」という言葉にまで問いを突き付ける。自分とは何か。自分の意識、自分の意見、自分の思考、とふだん平然と使っているこの言葉、意識の所有者と見なされている自分とは、何か。自分と自分の意識とは違うものなのか。そうだとすれば、意識とは別に存在する自分とは何か。それもまた意識によって認識されているものではないか。行きつく先は、ただ意識が在るという意識、にほかならない。

「すべての事象はそれを認識する意識のもとに帰する」。これは神秘主義的な何かではないし、観念論でもない。これは「現実」に処していくための、「現実」を自分に手のつけられないものと諦めるのではなく変えられるものと捉えて行動するための、最も根本的な足場なのだ。
 
   
――池田晶子さんの本には、病みつきになるような魅力がある。すでに故人だが再編したものや単行本未収録だったものを収めた新刊が幾つも出て、そのたびに買ってしまう。『無敵のソクラテス』が出た直後に、このデビュー作『事象そのものへ!』がトランスビューから新装復刊され、発売日に有隣堂アトレ恵比寿店に駆け付けて買った。

ベストセラー『14歳の哲学』のように、池田さんが得意とした平易な文章による哲学書ではなく、容赦なくヘーゲルヴィトゲンシュタイン、カント、ニュートンアインシュタインランボープルースト、等々これでもかと引用し、挑戦的な言葉を綴ったもの。それが他の著作以上に、わかりやすいのだから驚く。「読みやすい」のではない。「わかりやすい」のだ。研ぎ澄まされているからだろう。

研ぎ澄まされた思考は、一ページ目から読む者を引きずり込み、その思考の筋道をたどる面白さに――いやその思考が自分の意識を訪れ過ぎていく面白さに没頭させる。字義通りの「我を忘れる」という感覚を、この人の文章はいつも感じさせてくれる。
 
 
思考は離陸し、直感は加速する。ピーター・センゲは、『出現する未来』の中で、ダイアローグが深みに達したときの感覚を「喋っているのが自分なのか他人なのかわからなくなる」と表現している。思考するのは自分ではなく、思考が自分を訪れる。センゲが「拡大された自己」と語ったものは池田さんの言う「意識」であり、それは物質的ないかなるものとも、感情や思考、価値や意味とも独立した、無色透明のものとして存在する。意識の中を意味が流れる。

アイディアはもはや誰が生み出したものでもなく、意識がそれに気づいたということにすぎないと捉えるとき、人は狭量な自己の檻を抜け出し自由になる。オットー・シャーマーのU理論、変革に向けた思考がたどるあのU字型のプロセスは、「現実」の前提を保留し、可能な限り遡っていく思考によって現実を意識の中に据えることから始まる、とも言えるだろう。彼らの理論と池田さんの存在論との間には橋が架けられるに違いない。
 
 
ちょうど3年前、ビジネス書の編集をしつつも、いつかこの人と仕事ができたら、と思い始めた矢先に、池田さんは亡くなってしまった。そのため私にとっては永遠の憧れとして存在しつづけている。同じ思いの人は多いだろう。ほとんど全ページを書き込みで汚しながら読み終わり、本の帯の裏表紙側に引用された文章を見て、作り手の心配りに唸った。

存在論」は知識ではない。哀しみであり神秘である内なる「無限」を魂深く感受したとき、それは誰の意識にも、懐かしく知られているあの生活感情として甦る。たとえば私たちは言ってきたではないか。「あの人は死んだけれども、私のこころのなかではいつまでも生きている」と。素直に、あるいは、最後に手に入れた結晶のような想いとして。

「語り得ないものについては沈黙せよ」(ヴィトゲンシュタイン)。語り得ないものを語れるとしたら、それは既に語り得ないものではないのだから。無を語ることはできない。そして或るものが在ると言うとき、意識は、それ以外の一切を背後に捉えている。その無限の広がりを、読む人は池田さんの文章によって感受するだろう。この人が伝えてくれた「哲学」は、象牙の塔の言葉遊びではなく、世の現実と格闘するすべての人に捧げられ生き続ける、きわめて貴重な贈り物だ。

「哲学が取り扱うのは現実以外の何ものでもない」――「考えていても何も変わらない」のではない。「考えることなしには、決して変わらない」のだ。