気候変動にどう対処するか

温暖化対策について以前ここに書いたり人に話したりしたところ貴重なコメントもいただいたので改めて問題意識を整理しておきたいと思います。この問題では某エコ関係の雑誌の編集長とも何度か議論をして、彼も私も考え方がだいぶ変わってきました。

まず世界が直面している現実的な課題として、石油資源の枯渇あるいは有限性にどう対応するのか、があります。石油埋蔵量は技術進化により変動もしますし正確にはわかっていませんが(サウジアラビアなどは政府が情報を秘匿しているため外部からの推定でしかない)、程度はどうあれ有限でしょうし、資源の節約・効率的利用、代替エネルギーの開発などは、世界的に取り組むべき重要な課題でしょう。この点は私は異論なし。

その取り組みの入り口というか、一種の「見せ球」として、CO2排出量という指標を使ったり、CO2による温暖化脅威説を使ったりするのは、その目的に資する範囲では意味のあることでしょう。資源の浪費に対して行動是正を迫る上での戦略として有効であることも、国際的な交渉の成り行きを見ていて感じるところです。この視点は尊敬する某先生から示唆されたもの。

ただし、目的はどうあれ、事実を事実としてとらえる良心、論理における誠実さを欠いてはいけない、とも強く思います。海外の出版社の今後の刊行情報などを見ていると、最近では海外のエコ活動家の人でも、地球温暖化(Global Warming)ではなく気候変動(Climate Change)という言葉を使うようになりつつあるようですが、実際、地球全体の温暖化の有無は定かでないようで、「気候変動」と言うのがより妥当でしょう。

この2語には違いがあります。温暖化する地域がある一方で寒冷化する地域も生じうるのだと捉えれば、その対応策も地域ごとに考える必要性が出てきます。そういう個々の地域や住民にとってリアリティのある問題として気候変動を捉える必要があるわけで、たとえば日本で言えば台風などは年間10個(と数えるのかわかりませんが)上陸することもあればゼロのこともある、こうした傾向はどう変化しうるのかを研究し、適切な対応策を講じるのはカトリーナの例を引くまでもなく重要なことにちがいありません。

同様に、たとえば海面上昇に関しては、実証値に基づき、堤防の建設や沿岸のサンゴ礁の保護、あるいは住民の漸進的退避など、適宜の対応策をとる必要があるでしょう。また、気候変動に伴う感染症の拡大に対する取り組みが極めて大きな課題となることは、インフルエンザの報道などからも推察されるとおりです。マラリアの蔓延地域が広がるのではないかとか、気候変動によるリスクは多々あるでしょう。

農業がどんな影響を受けるのかも。日本ではかつて沖縄にしかいなかったある種のハエが九州南の種子島にも飛来して作物を傷める例が出ていますが、そういうのが世界的に起こりうる。農法の改良や栽培地域の移転や作物の変更なども考えなければならなくなる。そういう可能性を念頭に、気候変動の研究が行われていかなければならないと思います。しているのでしょうけど。

こうした「気候変動」とそれへの対応策の必要性はわかる一方で、温暖化(という気候変動)を止めるためにCO2削減を、という一般的な論調には違和感を覚えます。その理由の一つは、温暖化がCO2に起因するのかどうか、起因するとしてその程度がどれほどかが、科学的にまだ定かでないらしいことです。天文ファンとして言えば太陽の黒点活動によって気温が左右されるという説のほうがなんとなく説得力がありますが(歴史的にも連動性が高いようだし)、いずれにしても専門家でないのでわかりません。

ただ素人の感覚で言えば、CO2の寄与度が定かでないのであれば、CO2排出量の削減がどの程度の効果をもたらすのかは、それ以上に不透明ではないか、と思います。人為的に気候を操作することが可能なのか。そんな神のようなことが可能なのか。ここに私は違和感をもたざるをえません。これを操作可能であると前提にして各種の対策が、その有効性も見えないながら推進される現状に、疑問と好奇心をかき立てられます。「CO2排出量を減らす」という点で有効な施策はいくつもあるでしょう。しかし「気候変動を是正する」上で有効な施策はわからない――少なくとも仮説にすぎない。

ここで問題を優先順位をめぐるものと捉えなおす必要が出てきます。資源の効率的利用や節約という目的に資する有効な施策は現に存在します。代替エネルギーの開発からライフスタイルの変更に至るまで、明らかに意味をもつ対策があり、その行動の指標としてCO2排出量が用いられたり、「低炭素」というフレーズが用いられることは有意義だろうと思います。他方で、気候変動という現実に対しては、感染症の拡大予防、海面上昇に備えた沿岸整備、住環境の改善、農業政策の変更、災害対応体制の充実など、現実的な対応策がとられる必要があるでしょう。

このような現実的に一定の効力を持つことがほとんど明らかな施策と比して、温暖化対策としてのCO2削減という、仮説にすぎない施策に、どれだけの優先度が付されるべきなのか。ここに疑問があるわけです。端的にいえば、資源の節約・効率的利用のための指標としてのCO2排出量削減と、温暖化対策としてのCO2排出量削減とは異なり、前者が優先されるべきだということです。

どちらもCO2を減らすのなら行動としては同じではないか、と思われるでしょうが、認識の差異は行動にも差異をもたらします。目的が資源効率の是正にあると捉えれば、工場を海外に移転すれば国内の排出量を減らしたことになるので目標をクリアできる、とか、自分は電力を浪費しているがそのぶん排出権を購入しているからいいのだ、といった考え方が問題の本質から逸脱していることは明白です。これは資源の効率的利用という、いわば個々の現場で判定しうる問題を忘れ、トップダウンの目標値をとにかくクリアするために編み出されたバーチャルな対策です。

こうした本質から外れた考え方が何をもたらすかを注意して見ておく必要があるでしょう。バーチャルなものが本質を逸脱して広く流布し、かつそこに金融取引も絡んでくるとすれば、あのアル・ゴア氏らが唱道している排出権取引市場や排出権ビジネスというものが何をもたらすかは、これまでの世界経済の歴史から、ある程度は推測できるのではないでしょうか。

日本の産業界で実際に省エネルギー化に多大な成果をあげてきた人々がいる一方で、排出権ビジネスやグリーンビジネスに次の儲けの機会、次の経済の牽引役を期待する人々がおり、欧州で見られたように非効率な工場を途上国に移転して「削減実現」をアピールした企業があり、世論の支持を得るために環境重視をアピールし、本質的解決につながらないどころか阻害さえしかねない形で排出枠取引市場を創ろうとする人々もいます。

そうしたさまざまな思惑と行動の一方で、世界には数多くの現実的な問題が存在しています。気候変動による影響ももちろんその一つ。これから90億人にまで増えるとされる人類が、その誰もが貧困に陥らず、安全な水が飲め、自然と共生していけるには何が必要なのか。石油資源の枯渇にどう備えるか。原子力はどう用いるべきか。多種多様な「やるべきこと」の中で、どう優先順位をつけ、どう資源を配分して取り組んでいくのか。

「地球規模の問題」はイコール「抽象的な問題」ではなく、具体的に現実的に考えられなければならないはずです。そのあまりの困難さを想像しつつ、大きなものを動かすために求められる大枠の合意や政策や協定が、現実を外れぬよう注視し考えていくことが必要でしょう。日本はどうするのか。民主党政権霞ヶ関の見識、そして財界要人の良心と勇気を信じたいと思います。