リーダーシップ集中講義

福岡3日目は午後から九州大学の学生たちのために特別講義。一つ下の後輩が企画したグループワークをしたあと、僕から講義をした。テーマは「リーダーシップ」。ついでにマネジメントとソーシャルイノベーションの話も少々。別に僕はリーダーやマネジメントの経験が多いわけではないが、楽しみに聞いてくれる学生がいることだし、仕事での実体験を踏まえて色々と話をさせてもらった。大きく5つのパートに分けて語った。

1.そもそもリーダーシップとは何か、の問いかけから始めた。各人いろいろと意見を述べてくれて感心する。もちろん、これは決まった正解というものはない問いだ。が、まず、リーダーシップとオーソリティ(権威)は異なる、ということから語り起こした。往々にして人は、「リーダーであること」と「リーダーシップそのもの」を誤認する。だがリーダーの「立場」にいなくてもリーダーシップを発揮する人はいくらでもいるし、リーダーシップは地位とは無関係に生じるものだ。

2.ハーバード・ケネディスクールのロナルド・ハイフェッツ教授の言う「適応的課題」と「技術的課題」、またフランシス・ウェストリー他『誰が世界を変えるのか』で語られている「単純(simple)な問題」「煩雑(complicated)な問題」「複雑(complex)な問題」の違いを説明したうえで、唯一絶対の正解のない問題に取り組むときにこそリーダーシップが求められる、と述べる。不確実性にみちた現代は、人々の指導原理としてオーソリティではなくリーダーシップがより強く求められる時代だ。

3.リーダーシップは本質的に周囲に変化を求めるものであるため、反発や攻撃にさらされるリスクを伴う。この、リーダーシップが伴う危険についてもハイフェッツ教授の教えを参考にして語った。ここでは私自身の経験談に加えて、小泉構造改革と、それに先立つ橋本龍太郎政権の改革路線の挫折を対比して論じてみた。橋本と小泉の違いはどこにあったのか。そこから、リーダーシップが周囲の反発を乗り越えて実を結ぶための条件が見えてくる。

4.組織を動かしていくにはリーダーシップに加えてマネジメントが必要だ。リーダーシップとマネジメントの違いについて述べた。方針を示して一歩を踏み出す行為がリーダーシップだとすれば、マネジメントはそのリーダーシップを無駄にせず組織的に機能させる術といえる。ここでも僕自身の実体験を踏まえながら、あるべきマネジメントの姿を語ってみた。

また、「サーバント・リーダーシップ」についても言及。リーダーはサーバント(奉仕者)であるべきだ、とするこの議論は、私の解釈では、リーダーシップというより、リーダーの立場にある人の話というか、マネジメントの話だ。マネジャーはサーバントであれ。ただし、それだけでは不確実な時代に組織をよい方向に導くことはできない。不確実な状況下で方向性を示す、変化を主導するというリーダーシップの役割を見失ってはならない。と話を戻す。

5.最後に、『誰が世界を変えるのか』などで語られているソーシャル・イノベーションの事例に触れながら、そこでリーダーシップがもつ重要性について述べた。社会変革は個々人のリーダーシップから生まれる。また、合理主義的人間観やロジカルシンキング一辺倒の考え方の限界に触れ、システムシンキングや自己組織化、人間行動の理解の仕方としてのデザインについても言及した。それぞれが、自分自身の希望に従って、自分の周りの小さな世界を少しでも良くすることに努めてほしい、と語って終了。Make this world a better place.

30分ほどの質疑応答の中では、もし良からぬことにリーダーシップを使う者がいたらどうすべきか、とかいろいろな話題が出た。ハンナ・アレントの『イェルサレムアイヒマン』のことを話した。組織の命令に服従してユダヤ人虐殺を実行したアイヒマンは、戦後捕らえられ処刑された。謹厳実直だったとされるアイヒマンだが、彼はオーソリティ服従する権威主義者であり、リーダーシップはついに発揮しなかった。悪は凡庸なものだ、とアレントは言っている。権威や集団力学につい屈してしまう人間の凡庸さが悪を生む。集団や権威の圧力に抗い、変化を起こすリーダーシップの中にこそ、人間性の最も高貴なものがある。

計2時間の駆け足の講義だったが、幸い皆、熱心に聞いてくれた。終了後の飲み会でも真摯な問いをぶつけてくる学生たちに囲まれて、自分が学生だったころの恩師・豊永先生や森先生の気持ちが少し、わかった気がした。この福岡の地から、次代を担うニューリーダーたちが育っていくことを願ってやまない。