Getting to Maybe

Getting to Maybe: How the World is Changed という本があります。

How the World Is Changed

社会変革(Social Change)の方法論(と言ってよいと思う)について、ブラジルのHIV対策、犯罪を激減させた「ボストンの奇跡」、有名なグラミン銀行マイクロファイナンス、など多数の事例を踏まえ、複雑系などにも言及しながら論じたもの。

社会起業については昨年の駒崎弘樹さんの『「社会を変える」を仕事にする』やジョン・ウッド氏の『マイクロソフトでは出会えなかった天職』などの話題作もあって、特に若い世代を中心に、関心がどんどん高まってきていると感じています。非常に良いことだと思います。

社会起業と言えば、人によっては、「事業型NPO」というか、要するにビジネス的手法を使ってきちんと収益も上げながら展開するNPOのことでしょ、と思う人もいるかもしれませんが、たしかにそうしたものも含まれますが、本来この言葉は運営主体どうこうの話ではなく、「社会の問題を解決する」という事業の性質、中身、志向性、ミッション、にこそ着目して生まれた概念だと思います。また、「ビジネスを通じた社会貢献」という言い方もしますが、世界でソーシャルエンタープライズと言われているものの中には事業資金の多くを寄付に拠っているものもあるため、普通の企業が事業によって社会的価値を生み出す、というのに留まらない幅の広い概念だと思われる。

ともかく私としては、言葉の定義も大事ですが事業の中身、「社会問題の解決」という点に発しているところが大事で、従来のいわゆる「官」「民」それぞれの射程内でこれを考えるのでなく、まず問題ありきでその解決を考えていく、というアプローチにこそ、単純なようでも最も本質的な意義があるように思います。一つは官民の枠を超えてシステム全体を捉えることが可能である点において、一つはその主体や起点が政府や大企業でなく一個人でもありうる点において。

一つめの点は、システムシンキングが求められる理由と重なる。天神の渡辺通りが渋滞しているから政府が道路を広げたところそれまで渋滞を嫌っていた車までが通るようになってやっぱり渋滞する、とか、限定的な視座やアプローチでは容易に解決できない問題が世の中にはあふれていて、真の解決のためにはその事象を取り巻くシステムを見なければならない。ムハマド・ユヌスはMITの講演で貧困は貧困者が原因なのではなくシステムの問題だと言っていました、貧困は盆栽のようなものだ、狭い器で育てられれば小さな木しか育たない、と。

貧困に対して援助ではなくビジネス機会を提供する、というアプローチはシステムシンキングの重要性を示す好例で、最近何度か触れたグラミンフォンの、携帯電話があれば貧困層も経済活動を通じて貧困から脱却できる、つながることイコール生産性向上だ、という視点は、旧来の「官」「民」の枠内からは出てこない、少なくとも出てき辛いものであったに違いありません。「官」は援助のアプローチをとってしまうし「民」は貧困層に融資するマインドを持たなかった。そうした枠にとらわれず貧困撲滅という課題を起点に構想されたからこそソーシャル・イノベーションが生み出された。

Getting to Maybe では社会の事象について「複雑系」と「煩雑系」を対比するという興味深い説明を行っています。たとえば月にロケットを飛ばすのは非常に難しい課題ですが理論と計画と緻密な業務遂行により到達可能な「煩雑系」の問題であったのに対し、育児はさまざまな教育理論や論理的な指導法をどれだけ用いたところでそれがどう作用するかはっきりとはわからない、結果に不確実性が残る「複雑系」の問題である、と。アメリカはイラク占領統治を煩雑な問題と捉えて乗り込んだのだが実はそれは複雑な問題であったため苦慮することになった、とか。

社会変革の理論、というものがあるとすればですが、それはこうした不確実性、複雑性を抜きにしては語れないでしょう。これがシステムシンキングとともに重要な視点になる。システムシンキングが問題の有効な解決策、変化させるべきポイント、を導いたとしても不確実性はなお残る。複雑系の世界において個々の行動はやはり一つの放たれた矢のようなものでしかなく、それが何にどう作用するかをすべて見通すことはほとんど不可能。これはリスクを意味するとともに可能性の大きさを示しているとも言える。getting to maybe 、「かもしれない」を目指す、というのは非常に示唆深いなと思います。

そこで個人的に思い出すのはやっぱりハンナ・アレントで、彼女の言葉を使えば煩雑系は「仕事(work)」の問題、複雑系は「行為(action)」の問題であり、行為は一本の放たれた矢に等しい。これによく似たものとしてサッチャリズム研究に関して我が師・豊永郁子先生が語ったのが「作用」の政治学で、サッチャー政権の諸々の改革が決して十全に見通され計画立てられたものでなく、首尾一貫したベクトル=作用を持つ「矢」の乱打により元来抵抗勢力になりえた閣僚までもが自ら相競って改革に取り組むに至った、という話(不肖の弟子の乱雑な理解ですが)が示すのはベクトルの重要性、また行為の不確実性ということになるのだろう。

その意味では社会変革の動きの広がりは社会起業論ではスケールアウトという言葉で語られこれはこれで奥も興味も深い話ですがそれと同時にベクトルの共有、つまりは理念の共有、が極めて重要ということになる。理念共有に関してキリスト教の伝播プロセスにまで着目して方法論を探ったのがリクルートHCソリューショングループ『感じるマネジメント』なのですが、ここで重要な点の一つが「木」を与えるのでなく「種」を与える、完成されたモデルを導入するのでなく個々の事情に応じたアレンジを許容し自発的行動を促すアプローチで、これは複雑系の問題、つまり結果が一つの理想形に収斂するものでなくオープンな問題、めざすものがアウトプットでなくアウトカムである問題、に取り組む上で重要な点と言えるでしょう。

なんか非常に雑な書き方をしていますがメモ代わりということで。